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にっき
サイトの更新がないのは、百も承知だけれど、日記の更新までもないと、寂しくってしかたのない、水森です。ウザイくらい毎日、日記だけは更新が信条なのがおかしいだけかもしれないけど。というわけで今日は珍しく、バイトから帰ってきてパソコン開いて日記、書いてます。


文学界新人賞の『白い紙』シリン・ネザマフィ(覚えてる方は、本当はシーリーンね、と思いだして)を、貸していただいたので読みました。が、内容は、ふ~ん、というものでした。少年少女の淡い、恋とも呼べないものを、戦争が引き裂く、という、定型。でも、情景描写では、ありありとイランの光景を思い浮かべることが出来て、大変懐かしく思いました。


選考委員たちは、うーん、賞を出すなら、これでいいんじゃない?出すならね?程度の反応だったので、だったらいっそ受賞作にしなくて良かったんじゃないか・・・って感じの評が書いてありました。でも、委員全員が言っているのだけど、「少女の視点で話が進んでいくのに、主語が、『私は、私が』を使わないで書けてるのが凄い」みたいな、ことを言っていました。他の候補作は、みんなあるのに。って。


日本語は、主語を入れなくても文章、書けるし通じるんですよね。この、今書いてる文だって水森の主観、1人称で綴られているものだから、いちいち私が、私は、なんて入れなくったって、行動したり考えたり思ったりしてるのは、水森なんですよね。でも、英語を始めとするインド・ヨーロッパ言語の影響で、何を読んでもどこを読んでも、いちいち主語が書かれているんですよね、文の中に。


それは、夢を書いていても実感します。ふと気付くと、主語が多すぎる。って。呼びかけが多すぎるって。後で削ることも沢山あります。本当に、いつの間にかそんな文章になってしまっている。


選考委員たちは、良い、なんて言ってるけど、もしかしたらネザマフィさんは無意識かもしれません。だって、ペルシア語も主語を入れないで文章が成立するし意味も通じるんです。日本語と同じなんです。いちいち、誰が、私が、君が、なんて入れなくっても、出来るんです。


それは、動詞の語尾が主語によって変化するからなんです。動詞の語尾を見れば、誰がやったのか、わかるんです。例に「raftan 行った」を取り上げると、raftam 私が行った、rafti 君が行った、 raft 彼・彼女が行った、raftim 私たちが行った、raftid あなた・あなたたちが行った、raftand 彼ら・彼女らが行った、と、このように、語尾が変化すれば主語が変わるんです。だから、きっちり一文の中に主語がなくても、動詞を見れば誰が主語なのか、わかるんです。


実際に簡単な文章で書かれている絵本の翻訳を少し、やってみたことがありますが、もうごくごく当たり前のように、主語がありません。これ、誰が主語?なんて悩むことも沢山ありました。三人称に当てはまる人がたくさん登場すると、主語が欲しくなります。勿論、主語がきっちり書かれている文もあります。


・・・だから、もしかしたら彼女は日本語の特性・技巧として主語を徹底的に省いたのでは、ないかもなぁ、と思いました。ペルシア語も、日本語と同じように主語が省けるから。実際に、会話の中でもそうです。「行きましょう!」なんて時、いちいち主語なんて入れません。動詞の語尾で、私たちが、というのが読みとれますから。・・・なんてね、評を読んでて思いました。


こんな話しても、ペルシア語なんて誰もやってないんだから、理解してもらえなさそうだけど。ちょっと、確かに最近の文章は主語が多いなぁ、というのに共感しました。気をつけよう。
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